【ミッドライフクライシス】中年世代が抱える心の葛藤と私なりの考え方

  • URLをコピーしました!
目次

NHKのクローズアップ現代で取り上げられた特集

Youtubeの動画を漁っていたところ、大変興味深い動画を見つけた。

YouTube
【就職氷河期世代も】子育てを終えうつ病に… 中高年の心の危機“ミッドライフクライシス”との向き合い方 著... 「クローズアップ現代」放送後1週間は見逃し配信中https://plus.nhk.jp/watch/pl/c62990e7-250f-4817-b8ed-8c3366df4c87?cid=gendaihk-yt-2409-07-de最新の調査では日本の4...

本ブログのテーマに沿うものであったことから、迷わずクリックし視聴した。

ただ、Youtube動画は数ヶ月前のダイジェストであり、すでにNHKプラスでも視聴できずNHKオンデマンドにもアーカイブがなかったため、NHKのサイトで内容を把握したのだが、その内容について軽く内容をご紹介したい。

NHKクローズアップ現代「ミッドライフクライシス “人生の曲がり角”をどう生きる」

ミッドライフクライシスとは、中高年世代となり、これまでの人生や今後の生き方への心の葛藤を指す言葉である。

  • 何も成し遂げていない自分、若い人にどんどん抜かれていく状況に焦りや不安を感じている。

家事や育児に追われる中でも、さらに良い生活を目指しキャリアアップのために努力を重ね、会社や組織のために多くのリソースを割いてきたものの、気づけば環境の変化や加齢による体力減少のため思っていたポジションにも到達できず、もっと努力をしていれば…もっと上手くできたんじゃないか…という後悔を抱えている。我々世代には非常に共感できる状況ではないだろうか。

  • 中高年になってくると、若い頃のように何でも話せる友人が減ってくる。

家庭や仕事に忙殺され、友人関係を築く暇もないまま中高年を迎える人もかなりいるだろう。

  • 自分がこれまで貫いてきた生き方やスタイルが、今の自分に似合わなくなっていると自分自身でも感じるようになる。

若い頃なら許されたスタイルが、中高年にもなると痛々しいものとなり、他人に言われるまでもなく自分自身がそれを感じるようになる。

  • 仕事や家庭、趣味などこれまで心血を注いできたものが、できなくなったり興味がなくなったりして失われ、人生にぽっかりと穴が空いたような喪失感を感じて寂しくなる。

仕事では希望していなかった異なる場での活躍を求められ、子供の自立や離婚、体力的な問題により趣味が続けられなくなるなど、精神的に負担の大きい局面が目白押しなのが中高年という世代なのだ。

さらに悪いことに、我々世代は1993年から2004年ごろにかけての就職氷河期世代にあたる。

非正規雇用から抜け出せず、結婚や子育てもできないまま低賃金での生活を余儀なくされ、親の介護が必要な年齢になっても十分なリソースを持っていない、そんなしんどいだけの人生を送る同輩もかなりの数いらっしゃる。

これは現在でも日本の少子高齢化、労働力不足問題の根本的な原因の一因となっている。

まさに今の中高年は「クライシス」なのである。

番組内で提案された対応策として、

  • イメチェンを図る
  • 運動をする
  • 人と話す

といったことが提言されていた。

私は比較的NHKの番組制作には好意的であるのだが、この提言にはあまりにも、「しょぼ過ぎる」という感想を抱かざるを得なかった。

結局、ミッドライフクライシスに対する根本的な解決方法など番組制作側にしても分かりようがないのだということが分かった。

それが今回の記事を書く動機に当たるわけだが、次は現在中高年に突入した私が、この危機をどのように乗り越えようと考えているのか、その心持ちについて書いていきたい。

今回ばかりは私の独自すぎる考え方に共感できない諸兄も多いと思うが、一つの考え方として何かの参考になれば幸いである。

人生よりも生命そのものに目を向ける

努力を美化しすぎている

現代社会においてはこれまで、より良い大学を出てより良い企業に就職し、より良い伴侶を得られた者が幸せだと考えられてきた。

だから親たちは子供に対して、「勉強をして成績を上げなさい」「良い企業に就職しなさい」「素晴らしい伴侶と出会いなさい」と呪文のように言い続けてきた。

そして平等社会の名の下に、誰にでもチャンスがある、努力したものがそのチャンスを手に入れられる、チャンスを手に入れられなかったのは努力が足りなかったからだ…田んぼの蛙のような大合唱だ。

社会全体がそんな流れで来たものだから、我々世代は疑うこともせずに、努力すれば幸せは手に入れられると信じてやってきている。

「AをすればBが手に入る」これが現代人に刷り込まれている。

けど、本当にそれは正しいのだろうか。

私が生きてきた経験からすれば、正解は「AをすればBが手に入る可能性は上がる、けど、そうならないときもけっこう多い」だ。

(それはあなたの努力が中途半端だったからでしょ)という声が聞こえてきそうだが、まぁ反論はしない。

ただ、「努力」というものが少々曲者だと私は思っている。

よく、努力できること自体が才能だなんてことも聞くが、努力なんてものは誰でもできる、もっと言えば生きていれば誰もが努力をしている。

努力は誰にでもできることだが、何に対してもできるわけではない。

これが努力の正体だと私は思っている。

人生を良くするためにがむしゃらに努力することを善であると信じきっている我々世代は、とにかくなんでも真面目に捉えがちだ。

幸せは掴むものではなく感じるもの

そして「幸せは掴むもの」、こうしたイメージで捉えがちだが、私にしてみれば「幸せは感じるもの」である。

要するに現代人は、幸せと思える要素は身の回りに幾つでも転がっているのに、それをあえて見えないことにして、まだ見ぬ幸せがどこか別の場所にあると勝手に想定し、たどり着けるかどうかもわからない別の場所に行くために、本来しなくてもいい苦労をし続けているのだ。

そんな人生もあって良いと思うが、日本国民全員がそんな人生を目指す必要なんてどこにもないと思う。

時々、「私は努力ができない」「努力が続かない」という人がいる。

しかしそれが当たり前だ、努力は現状に生命的危機を感じた場合にのみ発現するスキルのようなものだ。

努力ができないというのなら、その人は現状で十分満足なのだ。言い換えれば、努力なんてしなくても十分幸せなのである。

「私は決して幸せではない、仕事や家事に忙殺されて、努力なんてしている時間がない」というのならば、努力の捉え方を間違えている。

あなたは現状を変えたいと思い続ける努力をもう既にしているではないか。あとはリソースと選択と集中の問題である。

さて、次は人間の幸せについて考えていこう。

本来、人間の幸せとは一体なんなのであろうか。

私はよく、道で日向ぼっこをしている野良猫を見て「お前らはいいよなぁ、幸せそうで」という感想を抱く。

そこで野良猫の幸せとはなんだろうかと考える。

近所の人が犬の散歩をしている時、嬉しそうに尻尾を振りながらご主人の足元を行ったり来たりしているのを見て、「この犬はもしかしたら幸せという感情を持っているのではないか」との感想を抱く。

確かめたことはないが、幸せという感情はおそらく哺乳類程度に進化した動物ならば全てが類似した感情を持っている。

動物は基本的には同じ感情を持っている。

ところが歴史的にも人類はどこか、野生生物と人間の間には大きな溝があり人間だけが特別な存在だと信じきっている気がする。

欧米の宗教感などまさにそうだろう。

しかし、人間だって紛れもなく動物であり、もっと種族を絞るならサル種である。

普通のサルよりは進化しているので、異世界風に言えばホブモンキー、キングモンキーやモンキーロードといったところだろうか。

いずれにせよ、人はサルであることに間違いはない。

ならば、サルの幸せを真似て考えれば良いのではないだろうか。

そうなると話は簡単だ、エサにありつけた時、外敵に攻撃されない時、繁殖できた時、群れの中に居場所が確保された時がサルの幸せだ。

人間の幸せも概ね同じようなものだろう。

美味しいご飯を食べられた時、安全な住居で安心して眠れた時、家族を持てた時、社会的存在価値を認められた時、これが人間の基本的幸せということになる。

ところが衣食住が足りていたとしても、現代人は幸せだと感じられない。

仕事が時代の波に乗り世間に認められた、多くの異性から関心を持ってもらえた、思いもよらないところからお金が舞い込んできた…そんな自分の起こした行動以上にもっと良いことが起こらない限りは他人よりも自分が幸せだとは思わないようになっている。

それほどのことを望んでいない場合でも、少なくとも現在の充足した現状がこの先もずっと続く保証がなければ本当の意味での幸せだとは感じられないという人も多いのではないだろうか。

人間が他のサル達と異なるのは、「虚構」を発明したことだと言われている。

>サピエンス全史:ユヴァル・ノア・ハラリ著

無いものを有ると想定し、集団での協力体制を作ったことが現在までの人類の進化にとって重要であったということだ。

だから我々も、本来無いはずの別の幸せのために、今ある幸せをできるだけ感じないように認知機能を調整し、前に進むことを強要されているのでは無いだろうか。

衣食住が満たされていることが大脳辺縁系(古い脳)の原始的な幸せなら、無いものを追いかけ続けることは大脳新皮質(新しい脳)の幸せにそれぞれ対応しているのかもしれない。

すると、現代の人間の幸せとは、衣食住やコミュニティが充足された上で、さらに虚構に向かって邁進するということになる。

なんともやってられないではないか。

でもまぁ、一個人の幸せとして考え直してみれば、衣食住に困らず、仲間がいて、終わりなき趣味の世界に没頭する人生というのは、客観的に見ても幸せな人生という他はないだろう。

ここで話は本題に戻るのだが、ミッドライフクライシスとは「虚構」の部分を大きく捉えすぎて、ありもしない不安や恐怖に怯えているだけの中高年の杞憂という結論に至ってしまった。

なるほどこれならば、先のNHKのしょぼい解決策は理にかなっている。

イメチェンも運動も人と話すことも、全て気を紛らわす典型的な手法であるのだから。

これからの人生をどう考えて生きていけば良いのか

寿命が長くなりすぎている

ここまで読者に読んでいただいて、「そんなのただの気のせいです」で済ませる度胸は流石にないので、実際に役に立つかもしれないご提案をしたいと思う。

40歳を過ぎるとだいたい中高年の入り口に立つわけだが、昔の寿命はせいぜい50年だった。

中高年とは、本人が望むか否かに関わらず、身体的に「もうそろそろ寿命を終えてもいいかな」と勝手に準備が行われる年代である。

しかし、現代人の寿命は倍近くに増えてしまった。

ミッドライフクライシスとは、伸びてしまった寿命の長さに恐れ慄いている状態とも言える。

こんな状態で残り半分の寿命をまっとうしていけるんだろうか…まさにこれである。

人生を終わらせてみよう

そこで提案なのだが、一度人生を終わらせてみたらどうだろう。

人生を終わらせるといっても、今すぐ死ねと言っているわけではないのでその点はご注意願いたい。

これまでの自分の人生、上手くいっていた人も上手くいかなかった人も、とりあえず全て終わったことにして、自分お疲れ様と労ってあげるということだ。

本当はもっとやりたいことがあった、まだまだ成し遂げていないことがある、色々な思惑があるだろうが、全て一旦全部、今日死んでしまったことにして物事を捉え直してみてほしい。

そして、寿命30〜40年の新たな人生として「今」生まれたと想像してみてほしい。

今日生まれたのだから、面倒臭いしがらみなんて初めからない、やらなくちゃいけないことなんて初めからない、学歴も経歴も一切ない、今までの自分がこう生きてきたのだからこうしなくてはならないといったことが一切ない状況だ。

寿命30〜40年なんて少し短すぎやしないか?と思わないでほしい、現にあなたがこれまで生きてきた数十年でもかなりしんどかったはずだ。

しかも、今回の生まれ変わりは、初めから言葉がわかり、大人の頭脳を持ち合わせているチート状態だ。(チートとはゲーム用語で、ゲームの初めからむちゃくちゃ強い状態を不正に作り出すことだ)

もしかしたら、前世の自分がある程度の蓄えを残していてくれるかもしれない、そうなれば鬼に金棒ではないか(借金がある人はこればかりは消えないのでご注意を)。

生まれ変わったらどうするか

さて、あなたは今、チート状態でこの世に生まれ出た。どうやらチュウコウネンという人種らしい。

体力面では多少劣っているが、今すぐにでも学校に通えそうな能力付きでだ。

ここからは、何が自分に必要なのかを考えてプランニングしてみよう。

まずは学習だ。

日本語は喋れるが、どうやらこの世界は英語が使えた方が活躍の場が広がりそうだ、英語を習得するのも良いかもしれない。

活動するためには資金が必要だ。

この人生では生まれた瞬間から、稼ぐことができるらしい。ならば今すぐ何かをして稼ごうじゃないか。

よく分からないがこの世界の会社という組織は、どうやらチュウコウネンを雇う気がないらしい。人種差別も甚だしいが、ならば仕方がないので自分一人で稼げるスキルを身につけてみようか。

調べてみると、パソコンという機械を使ってテキストコンテンツを作るだけでお金になるらしい。幸いなことに、生まれた瞬間から日本語の能力は付いているから儲け物だ。

あとは、一緒に助け合ってくれる友達が出来れば心強い。SNSで趣味や仕事の仲間探しをやってみるか。

そもそもこの世界のことがあまり分からない、とりあえず各地を見てみたり、歴史を調べたり、生息している動植物を観察したり、人の話を聞きに行ってみようか、チュウコウネンでも大学という学校で学ぶことができるらしい。

おっと、前世の知り合いというのが現れた、よく知らないが、性格のいい奴なら今世でも仲良くしてやろうか。

…いかがだろうか、少々ふざけすぎたが、人生がまだ半分残っているというのならば、いっその事生まれ変わったことにしてしまえばダブルで美味しいとは思えないだろうか。

ミッドライフクライシス回避のカギは「今」に集中すること

中高年の心の葛藤は、過去と未来に囚われすぎていることから起きている。

一生懸命に生きてきたけど、未だ何も成し遂げられていない

子供が巣立っていき、生活に張り合いがなくなった

気力も体力も落ちていき、将来暮らせていけるのか不安

若い世代ばかり給料が上がり、将来が不安、もっと違う人生があったのではないか

これら典型的な悩みは、よくみると過去と未来にばかりフォーカスしていることがわかる。

「今、〇〇で困っています」という切実な悩みではなく、正体の掴めない漠然とした悩みなのだ。

アドラー心理学では、過去と未来ではなく「今」に集中する必要性を説いている。

>幸せになる勇気:岸見 一郎 (著), 古賀 史健 (著)

もしあなたが、夜に布団に入りこれまでの人生の後悔と将来への不安で悶々としているとしよう、今だけに集中すれば、ご飯を済ませ、お風呂に入り、暖かい布団で横になれている事実に気がつくはずだ。

過ぎ去った過去を何度もリフレインしたり、来るかどうかも分からない将来の危機を案じたり、比較しても仕方がない世代格差を恨んだりしても、今のあなたの現状は一ミリも変わらない。

ただただ落ち込むだけだ。

脳は何度も同じことを考え続けると、その考えをするための神経回路が強化される特性を持つ。

考えても無駄なことは、とっとと隅に追いやって、今、身の回りにある幸せにフォーカスするのが得策である。

今に集中する訓練として、マインドフルネスや瞑想といった手法を取り入れるのが最も効率が良い。

ぐるぐると悩み事を考えている状態は、脳が真っ赤に温度上昇している状態だが、瞑想することで文字通り頭を冷やし、錯綜していた脳の情報伝達が正常化していく。

すると、身体の外部の情報を受け入れやすくなり、気温が快適だとか、青空が気持ち良いとか、土の香りがするといった自然との一体感を得られやすくなる。

そしてその充足した状態を人は幸せと感じることができる。

「今の自分を受け入れる」という陳腐な表現を、私なりに解釈すると、そういうことだ。

中高年の葛藤なんてものは、実は単なる杞憂であり、そんなものに縛られるよりもこれからの人生をただひたすらに楽しく過ごしたらいいじゃないか。

それが私の本心である。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

アラフィフ社会人
定年を自分ごととして考えられる年代になり、「第二の人生・老後の生活」についてあれこれ考えてます。
組織人として人生の時間の大半を仕事に費やしてきたため、「生活」や「暮らし」について何のスキルも持っていないことを反省中。
身の回りの出来事や取り巻く環境について、改めてアラフィフの視点から考察していきたいと思います。

目次