先日、以前勤めていた職場の同輩から久しぶりに連絡があり飲み会に参加したのだが、それがまたひどい飲み会であった。
当時の栄光を永遠と語るだけの無駄な時間、当時のパワハラを永遠に謝り続ける当時の上司、何百回と擦られ続けた当時の失敗談…
そして行きたくもない二次会への強制参加で終電に乗れずタクシーで帰宅する我ら中高年。
当時はこんなひどい飲み方が楽しかったのかと驚愕させられたのだが、昔を懐かしむ気持ちもあり誘ってもらえたことがありがたいという気持ちは多少あった。
しかし、こんな「成長のない」人間関係の在り方が今後自分の人生にとっても必要なものだろうかという気がして、中高年になってからの人間関係の在り方、孤独感との付き合い方について考えさせられる良い機会となった。
今孤独感に悩んでいる諸兄、今後自分が孤独になりそうで心配なご同輩らに読んでいただけたら幸いである。
人付き合いの形は年代とともに変化する
コロナ禍を経験し最近は幾分か風潮が変わってきているが、それでも以前の職場の同僚たちとの飲み会といった行事に現在も参加している諸兄らも多いと思う。
それが楽しいイベントであれば大いに参加したいところであるが、今回はそうはいかなかった。
私自身、今となっては飲み会否定派であるものの、退職された先輩の話も聞いてみたかったので良い機会だと思い、渋々参加した。
初めから一歩引いた気持ちで参加したために雰囲気に乗り切れなかったということもあるが、10年ぶりぐらいに目の当たりにした当時のノリの再現に、めまいと吐き気を感じた。
酒が空いたグラスあればすぐに注ぎなさい
皆がつまみやすいように串外しなさい
会計や注文は先人を切る
不文律最低限のマナーです
ado 「うっせぇわ」
Adoの「うっせぇわ」の曲の歌詞そのままの光景が目の前で繰り広げられる…
確かに、私も10年前は率先してやっていたし、今でも接待の場があれば若手に同じことを指導することもあるだろう。
しかしながら、今はいわゆる同窓会のようなものである。もっとアットホームな雰囲気で良いじゃないか。
酒が回れば、出てくるのは語られ尽くして擦り切れた過去の栄光話、擦られまくった失敗談、当時の上司は今更の涙のパワハラ謝罪会見(とっくに退職された方である)。
新しい情報が入ってくることも全くなく、話題提供をしても難しい話はとことんスルー。
それが30分おきに何度もループ。
その後は強制参加の二次会で終電を逃しタクシー帰宅とあいなった。
「10年前の自分達はこれを楽しいと思って毎晩のように梯子酒をしていたのか…」
翌朝、私は二日酔いの頭を抱えながら、もう二度とこんな飲み会に参加するのはやめようと誓った。
もちろん二日酔いだから酒はもう飲むまいという誓いではない。
中高年にもなってこんな恥ずかしい飲み方をする人間関係は清算するべきだとの誓いだ。
かつては気の合った仲間でも、その後に歩んだ人生はそれぞれだ。
かつての仲間を悪くいうつもりは毛頭ない、ただ、年相応の付き合い方を考えなくてはいけないという話である。
少し先に触れたが、私はコロナ禍を経験してから飲み会の誘いは積極的に辞退するようになっている。
理由は簡単で、お金と時間がもったいないからである。
「組織人である以上、飲みニケーションは重要である」これは至極当然、正論である。
私も人一倍飲んできた。それが仕事に対する姿勢の表れだと言わんばかりに。
だから、今仕事で成果を出したい人は大いに飲むべきだと応援する気持ちすらある。
しかし、現在の私は飲み会にはほとんど参加しない。
中高年に突入してふと気づいたことがある。
飲みニケーションはコスパが悪い。
時間もかかるしお金もかかるのに、建設的な意見が出ることが少なく生産性が低い。
中高年になれば健康リスクも増大する。
若い頃は酒の勢いを借りてでも成果を上げたかったが、中高年の仕事のやり方は酒抜きでよりスマートな方法を身につけるべきだ。
おっさんたちが飲み会ではしゃぐ姿はちっともスマートじゃない。
私がこのようにして飲み会を断り続けていると、時々言われることがある。
「今のうち(在職中)に友人増やしておかないと、仕事を辞めてから孤立するぞ」
うん、まぁ、きっとそう感じる人もいるのだろう、否定はできない。
しかし、本当に老後の孤独感を減らすために、今友人を増やす必要は果たしてあるのだろうか。
前置きが長くなったが、次の章から私が感じた孤独の本質の話である。
中高年からの友達作りは本当に必要なのか
中高年といえば孤独というキーワードで最近特によく語られるようになったと感じる。
自分自身が中高年になったことによるカラーバス効果かもしれない。
しかし実際、近年では孤立・孤独が問題視されており、2024年には孤立・孤独対策推進法が施行されて各種支援や相談窓口が設けられている。
特に日本は世界一孤独な人が多い国だそうだ。
政府が孤立・孤独対策推進室を作り問題解決に取り組まなければならないほどの問題とは一体どのようなものだろうか。
警察庁発表の統計資料によると、2024年第一四半期の孤独死者数(全世代)は約2万人、年間推定数は約7万人となっている。
2011年の統計データでは、年間で2万6千人であったことから大幅に増えていることは間違いない。
その他にも、孤独によって引き起こされる問題として、認知症などの健康被害、ゴミ屋敷化、犯罪被害などが挙げられる。
こうして見てみると、いかに孤独が悪いことかと思わされるのだが、だからといって社会全体で孤独を解消させるために動こうとする向きにはいささかモヤモヤとしたものを感じてしまう。
政府の動きは当然のこととして理解はできる。
上記問題は、潜在的な社会的損失が増大している事を示しているからだ。
政府が動くということは、何も個人に焦点を当てて可哀想だからなんとかしてあげようなんて親切な動機ではない。
孤独死が増えれば、遺体が何ヶ月も放置されることで感染症リスクを増大させるし、認知症患者やゴミ屋敷が増えれば社会負担が増大する。
犯罪被害に伴う経済的損失もバカにできない額となるだろう。
しかしながら、一個人にとって孤独を考えてみれば、それは有史以来ずっと普遍的に存在し続けてきたものである。
本記事では一個人にとっての孤独について考えてみたいので、大きな話は割愛させていただくとする。
有史以来と書いたが、昔のギリシャの哲学にも世界中の宗教にも孤独に関する話題はある。
仏教では独生独死という言葉があり、人は孤独がデフォルトだと言っている。
どうやら人が精神的に成長するためには孤独は必須らしい。
悪妻を持てば哲学者になれる
ソクラテス
私の好きなこの言葉も、人は共感してくれる人が居なければいろいろ一人で施策を巡らせるという、孤独に関する言葉と捉えることもできる。
何が言いたいかというと、孤独は有史以来人類が向き合い続けてきた普遍的なものであり、悪い面だけでなくポジティブな影響も与えてくれるものだということだ。
ところで、ネットで「中高年 孤独 対策」などと検索すると、ほとんどの記事に対策方法として「友達を作る」と出てくる。
実際、老後一人は寂しいから、老後に何かあったら頼れる友人が欲しいから、という理由で友活をする人たちもいるだろう。
解決方法としては省けないものだろうが、私は「他人事のように適当なことを…」と感じてしまう。
中高年になって作れるのはせいぜい「知人」であって、「友達」なんてそう簡単に作れるものではないのだ。
人のライフサイクル的にそうできているのだから仕方のないことだ。
私も若い頃には少年ジャンプなどの少年誌を読んで「やっぱ友情は大事にしないとね」なんて思っていた。
しかし、今では全く心に響かない。
少年誌で友情ストーリーが王道なのは、若いうちは生きていくのに友達が必須だからだ。
若いうちは色々未熟だ、だからこそ仲間で支え合ってようやく生きていける。
家庭菜園をやったことがある人ならわかるかも知れないが、人参は種を密集してまき、大きくなるまでは密集状態で育てないと発芽が上手くいかなかったり生育が悪かったりする。
ある程度大きくなると、今度は間引いてやらないと根が張れず成長が遅れて丸々太った人参にはなれない。
人のライフサイクルもこれと同じだ。
若い頃には助け合って支え合って一人前に育っていくが、一人前になると今度は距離感を保てない人の存在が疎ましく思えてくる。
つまり中高年になったら友達は必ずしも必要でなくなる。
「じゃあ中高年に友達はいらないということか」と言われれば、それも極端すぎると言いたい。
自然と友達になれるなら大いに友達になったらよろしいが、そもそもそれができる人なら「友達が欲しい」なんて言わないだろう。
老後に備えて、何かあった時のために友達が欲しいという発想は、本来ギブアンドテイクであるべき友人関係からテイクの部分しか見てこず、なんとも自分勝手な発想だと思ってしまうのは私だけだろうか。
中高年ともなればそれぞれいろいろな経験を積み、世の中のことにある程度理解が進み、家族など既に完成された人間関係が構築されているだろう。
結局、そうしたいわゆる成熟した人間同士では、どれだけ仲良くなっても雑談できる知人がせいぜいなのである。
そしてそれで十分じゃないかと、私は考えている。
この辺りのことは様々な本が出ているが、齋藤孝氏の著書である「孤独を生きる」を個人的にお勧めする。
結論を言えば、私は老後のための友達作りなんて必要ないと思う。
ここで言う老後のための友達作りとは、老後の心配を動機にして孤独感を紛らわすために無理して中高年のうちから友人関係を構築する事をいう。
そうした考えから、私は老後の孤立に備えて在職時代から飲みニケーションによって交友関係を増やそうなんてことはしないことにしている。
何度も言うが、勝手に友人になれるのならあえて拒絶する必要は全くない。
孤独感に負けない心づくり
齋藤孝氏の著書からの受け売りにはなってしまうが、孤独感とは誰もがかかる風邪のようなものである。
私は孤独耐性は強い方だが、誰にも味方されなかったり、しばらく人と話していない状態が続くと物悲しくなり孤独感を感じることがある。
しかしながら、もし今後私が退職して一人きりになったとしても、行政主導の孤独対策コミュニティに入ったり散策クラブなどの興味がないサークルに所属するなんてことはないだろう。
寂しさから所属したとしても、どうせ疎ましくなってすぐに辞めてしまうのが関の山だ。
この記事を読んでくださっているご同輩らもおそらく同じ人種ではないだろうか。
パリピ(party people:イベントなどで集まって陽気に騒ぐ人)な方がこんなブログを読むとは思えないからだ。
私たちのような人種が、コミュニティの出入りを繰り返すと、人との出会いと別れを繰り返すことになりさらに孤独感を悪化させる可能性もあり、無責任にお勧めはできない。
それよりも、私はご近所さんの顔見知りを増やす方が良いと考える。
私は近所の神社までよく散歩に出かけるが、その際に見かけたご近所さんには挨拶をするように心がけている。
「こんにちは」と会釈だけで十分だ。
挨拶を返してもらっただけで、私は3日間は孤独を感じることなく過ごせる。
雑談なんてできたらひと月缶詰状態で仕事ができるだろう。
中高年になったらそれくらい広く浅い人間関係で十分やっていけるんではないだろうか。
齋藤孝氏の著書に気に入った対策方法が書かれていたので一部ご紹介する(他の方法が気になった人はぜひ本を読んでもらいたい)。
一つは、本を読むということだ。
本を読むという行為は、著者と読者の一対一の対話である。
どんなにリアルで濃密なコミュニケーションを図ろうと、その人の書いた著書を読む以上のコミュニケーションは取ることができない。
本には著者のコアな部分がさらけ出されている。それを読み解き、相手を理解しようとする間は孤独感を感じる暇は一切ない。
図書館に通うのもお勧めである。
環境を変えられるのもメリットだが、そこにはあなたが対話する相手が数万人もいるのだ。
さらに日記をつけるというのも良い対策方法だと感じた。
誰にも読まれない日記をつけることは、本音の自分と語り合う行為と言える。
日記を文章として書く以上、そこにはインタビューをする自分とインタビューを受ける自分が存在している。
本音を書くのだから二人とも本気である。これ以上ないくらいの聞き手と語り手である。
公開情報と非公開情報を器用に書き分けられる人はブログで発信するのも良いかもしれない。(その場合、読んでくれる人はほとんど居ないことは最初に心に留めておいた方が良いだろう。書きたい事を書いたブログは大抵読まれない。アクセス数を稼げるブログとは読者が読みたい内容だけが書かれたブログだ)
人はいずれにせよ、歳を取れば孤独になっていく。
それはきっと、人生の大半を過ごした後にやってくる総括の時間という事だろう。
孤独感とは、意識を内面に向けるためにプログラムされたスイッチなのだと思う。